昭和47年10月15日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
ここに片便で願い捨てであろうが、それでも一心を立てればという、この一心というのと此方が祈るところは、天地金乃神と一心なりと一心が二つ出て参ります。字は同じですけれども。その内容に於ては大変違うと思うのです。教祖の神様が祈られるところ、天地と一体という意味での、最後のところは一心ですし初めのところは、私共が神様を拝むと言うてもね、一心を立てて拝む。あの人この人と言った様なものではなくて。あの神様この神様と言った様な事ではなくて。一心をもって神様に願う。それはわが心に神がござるから、おかげになるのじゃという一心。
最後のところの、此方が祈る所は天地金乃神と一心なりと言う様に、その例えば字は同じでありましても、内容という意味というものは、大変違ってくるんですね。天地書附を毎日奉唱させて頂いて、「生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり」というおかげでもです。実を言うたら頂き方で、大変な違いになってくる訳です。今合楽で言われておる、「和賀心時代を創る」と言う様な内容のものになって参りますと、意味が、漠然と思われる位に、拡大されて参ります。
大きくなって参ります。そこで和賀心時代を創らせて頂くという。おかげを受ける為ではなくて、本当に和賀心時代を創る事の為の、真実、運動員といったような、信心をもってする事になりますと、これはもう大変な意義というものが出来てくる。自分が只おかげを受けるといったようなものではなくて、世界中に広がってくる。言うなら世界真の平和を、祈り願わせて頂くという事と同じ事になってくる。勿論まず私の心の中に、和賀心という信心を頂いてゆかなければならん事は勿論です。
昨日夕方今度御大祭の御直会になりました、この御本が出来て参りました。内容も見事に出来てきております。中に沢山私の幼少時代から、最近の修行中の時分の写真やら、まぁ得難い写真やらが、写真入りで出来てきておる。これを昨日こちらの印刷をして下さった、大里さんと言う、福岡教会の熱心な御信者さんでありますが、持って来て頂きました。それで、言われる事がです。「合楽の先生、どうでもひとつ、長生きをして下さい。これ程しの内容を持っておる教会。
これ程しの内容を持っておられる先生が、世に問われないという事は絶対にない。兎に角長生きをして下さい」と。まあ丁度電話を借りに行って、事務所で二十数年間にわたってから、私がお話をしておるのが、全部書きとどめられておるという様な事を見て、愈々びっくり仰天してしまっておる。本当にこれ迄神がものを言うて聞かせた事がないという、私のお話が全部神様がものを言うて下さったんだという事なんです。だから素晴らしいて。お話は沢山あるけれども。
ただただもう驚きだと、こういう訳です。しかもここ十何年間テープレコーダーがやってくるようになりましてからは、テープにそれが毎日とってあるというのを聞いて、愈々驚いておられます。あれが大坪総一郎の話なら、大して値打ちはない。ところが皆さんが聞いて下さるように、成程私の口を通して、皆さんに聞いて頂いてますけれども。聞いて頂く内容というのは、神様が直に教えて下さった事を、また神様のお心を理解下さるのでございますからね。
それで日々、こうやって頂いておりますから、大した事もないようにありますけれども。神様から下さったという事の、頂くという事の間違いない事なのですから。これはもう大変な事なのです。私は昨日これが出来上がって、その大里さんが言われるのです。改めてまた、こう開いてみて、ちょっとこう開かせて見せて頂いたところに、先生のお話の中に、こういうお話が出て参ります。青年教師の方達に、お話をしておるお話の中に、「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。
神を杖につけば楽じゃ」という御教を説明しておられるのを頂いて、これだけで合楽の信心は極まったと思いましたと言うております。もう驚いてしまいました。神様をここ迄信ずる。教祖様のお言葉を、神のお言葉としてここ迄信じれたら、してみると私共の信心は、本当に永年信心はしてるけれども、大したもんじゃありませんという事である。神を杖につけば楽じゃと仰せられるから神様一心にすがる。
今日の一心ですね。一心にすがる。神を杖につけば楽じゃという答えが出てこなかったら、まだ私は、神様を一心にすがってはいないという事になるという説明がしてある。これを頂いて、徹底しておるという事ですよね、合楽の信心は、教祖様の御教に徹底しておる。安心が生れない。親先生が、ああ言うて下さったからと、安心が出来ると言うならば、親先生を杖についておる証拠です。
けれども親先生が、心配いらんばのと言うたっちゃ、やっぱ心配であるならば、如何に親先生親先生と言いよっても、親先生を杖についておらん証拠です。私は神がものを言うという事の中に、昨日、ここで御用をさせて貰いましたら、ここへ若先生が字で、こう置いてありますもん。見たら、あんまり素晴らしい事ですから、これは若先生が頂いたっじゃろうか、今朝の御理解の内容じゃろうかと思うて。
後から聞かせて頂きましたんですけれども、桜井先生の奥さんが、昨日御祈念中にそれこそ神様がもの言うて下さった訳ですね。それがこういう風に頂いておられます。「親が助かり子供が安心、子供が助かり親も安心でございますから」と頂かれた。これは正しく、三代金光様のお言葉ですね。あのゴロで分かるですね。ははぁこれは四神様の御教だなぁという時には、四神様の独特の口調でお話下さってあるです。これは正しく三代金光様の御教です、お言葉ですね。心耳に響いてくる。
親が助かり子供が安心、子供が助かり親も安心でございますからとある。ございますから、親がまず助からなければなりませんという事。子供がお父さん、大変な事が起った。こげな心配な事が起ったと言う時には、それは困ったね、お前がそげなこつするけんと言うたんじゃ、親も子も一緒に助かってない証拠です。例えば子供がどういう不調法なら不調法をしでかして、お父さん、実はこういう事が起ってと、相談を受けた時に、心配する事はいらんばい。必ずおかげの元になるよと言えれる親です。
もうそこに子供が安心する。お父さんが、ああ言うてもらうから。それが自分自身が半信半疑であって、口で言うておったんでは、子供にそれが安心となっては伝わっていかないのだ。子供が助かり、親も安心でございますからと。子供が助かる、これは本当の極めた助かるというのではなくてです。昨日も、丁度午後の奉仕をしておりましたら、ある御信者さん、大変熱心に毎日お参りになっております。その人がえらい遠方からですがね。「今日は親先生、自転車で参らせて頂いた」と、こう言う。
「いやあ、大修行じゃったね。」それがもう今日は、どうも自分の心に押えかねる、持ちかねれる。だから自分で立派な自動車も何台もあるし、自分も運転出来るのですから、自動車で来てもいいのですけれども。わざわざですね、それこそ山越えて来にゃん所です、そこは。それを自転車でやって来ておる。そん時に、私は丁度、これを見ておるところでしたから、あのね、これは、おそらく若先生が、今朝から、皆さんにお話した事じゃろうと思うけれども。こういう御教がある。
これは三代金光様の御教だろうと思うが。子供が助かり親も安心でございますという事は、子供が、これは、子供でも親でも実は同じ事ですけれども。完全な助かりといった様な事はないに致しましてもです。子供がどういう悩みを持ち、難儀を持ちましてもです。今から自転車で、合楽にお参りをすると言うて、心を神様に向けてくるという事だけでも、親は安心です。いわゆる、子供が本当に、信心によって助かろうとする姿勢を見ただけでです。親は安心するという事なんです、ここは。
これがどうでしょう他の所に、気分まぎらせに行っとったというのであったら。本当の助かりを求めて合楽にやって来る。その後ろ姿を見て親も合楽に行くなら、あれがあげん言よるばってん、大丈夫心配はいらんと、安心をするでしょう。昨日はそれだけでおかげ頂いた上に、先日からの御理解を熱心に頂いて帰りましたがです。ここで本当に親が助かっておったら、私はもっと素晴らしい事だと思う。子供にです○○さん心配しなさんな、親先生にお願いしてからの事じゃないねと。
本当に親がここに安心しておって、その安心を子供に伝える程しの、おかげを頂き助かっておったらです。もっと素晴らしい事だと思う。私共は本気で助からなければいけませんですね。これなんかは、神がものを言うて聞かす。これは桜井先生の奥さんが頂かれたのですけれども。これを日々合楽では頂いておる。しかも二十数年のものがです、あのようにして残っておる。これはそん時、ある教会の事を言っておられましたが、そこの親先生が亡くなられた。
そん時に大変御比礼が立っとりますが、御普請があった時に、親先生が書き残されたり、話されたものを、合楽の場合とは問題にならない位ですけれども。内容と言うても、どこ迄も、先生の体験ぐらいのものでしょうけれどもです。いわゆる。耐火造りですね、地震があっても、火事があっても、これだけは焼けないというような家を作られて、そこに納められてあるという事なんです。合楽の場合なんか、若先生に言いよりました、若先生、これはどうでも考えなさらにゃいかんですよ。
あんな事務所にども、ああして置いてから、もし万一の時はどうしますかと言うて、心配して下さったんですけれどもね。私も本当にそう思います。けれども、私は、これが本当に残って世に問われるものであるならば、まず火事もなかろう、紛失する事もなかろうと思うんですけれども。そこは、やはり頂く方の側が、念には念を入れといったような頂き方というものが、必要じゃないかという風にも思うのです。
昨日、御本部から帰らせて頂きまして、御本部で頂いてまいりました、おみやげ話を聞いて頂きましたが。御本部参拝によって、有難いものを、なにがなしに、それぞれに頂いてきた。言うなら、心に光がともった。それは提灯のローソクに火を点じて頂いたようなものである。けれどもそれは、風に揺れる、また少し風が吹いたら消えるかもしれない。だから、それを消さない為にです。引き上げよと、提灯を上に引き上げておかなければならない。引き上げよという事は、今自分の心の中がずんだれておる。
さぁ祈念祭だというのにこんな事じゃ出来んと、ずんだれておるのを引き上げよという事。御本部参拝を境に、頂いてきた光を、これを持ち続けさせて頂く為に、提灯を上に引き上げる。ずんだれとるところを、シャンとせよという。そこに修行を求められるというお話を、皆さんに聞いて頂きましたがです。これはひとつの成り行きの上にも、それをハッキリ感ずる事が出来る。古川の家で豊美がお土産を色々揃えてまいりました、その中に、「これは親先生、また合楽で修行が始まりますよ」と。
「なしや」と言うたところが、丁度、笙か何かのようにしているのです。紙に包んで、何だろうかと思うたら、今金光様の所から今日の御大祭のお下がりを頂いた。だからこれは合楽に持って帰って下さいと言うて、四神様が拝まれた、斎場で使われておりました伊勢海老なんです。それをまぁだ生きておるそれを括ってですね、それをお土産に頂いて帰っておりました。成程伊勢海老のお知らせと言や、大変尊い修行として、ここで頂きますように、現実をもってです。
本気でさせられる修行はつらい。神様がさせられる修行は辛いから、こちらから一歩先んじてです。ひとつ本気で修行させて頂こうという気になりゃ、楽しゅうもありゃ楽でもある有難くもある。昨日お届けが一通り終ってから、久富繁雄さんが頂いておりましたから、あれは死んどりましたから、冷蔵庫の中に入れと来ましたち言いなさいますもん。死んどるち言いましたもんですから、そんならもう一遍確かめようち言う所で。それからまた冷蔵庫を開けてみて解いて見たところが、まあだ生きとる訳です。
所謂いつも頂きますように、もう伊勢海老という奴は、ちゃんと生き絞められておるち言う訳なんです。小さい箱の中に押し込められて、しかもそれを荒海の中に投げ込んでおって、それを十日なり二十日なりも荒海の中で、鍛えてある訳なんだ。昨日汽車の中には、スチームも入りますしね。そういう風に、窮屈にがんじがらめに括ってありますから、本当に死んどると思うとったけれども、生きておるという訳です。それで昨日、残られた方達に、お食事を差し上げましたから。
早速深町さんがお刺身にして下さった。それで私と秋永先生、それから高橋さん、久富先生、そすと久富繁雄さん五人で、御直会を頂きながらです、秋永先生が言われるんですよ。本当に全国にどれ程教会が沢山あるか分からんけれども。昨日の御大祭の、お下がりの、例えば、伊勢海老なら伊勢海老のお供えをです。翌る日はここでお刺身で、御直会として頂けておると言う様な教会が、果してあるだろうかと。考えてみると本当に勿体ない話ですと言うて、頂いた訳です。
みんながほんなこつですなぁと言うて、お刺身を頂いてる訳なんです。こら今日頂いた者は、どげな修行せんならんじゃ分からんと言いながら、恐々と頂いておる訳です。けれどもですね、秋永先生が言っておられますけれども。本当に勿体ないといった様なものを、ひとつも感じない訳なんです。勿体ない事ですよ。とてもこげな教会はありませんよと。御本部の御大祭にお供えした伊勢海老を、今日ここでお刺身で頂けるなんて、とてもほんに、合楽におかげを頂いておるおかげだと言うて。
有難い勿体ないと言よるけれども。有難いというものを感じられないです。勿体ないと言よるけれども、本当に勿体ないとは思うてないという感じなんです。私はそれが、本当にそうね、秋永先生と言うて申しました時に頂きましたのが、私共のように布一寸買いませんとか米一粒買いませんとか、下駄一足買いませんと言う様な何もないという所からです。そこに頂けれるものであるからこそ、有難いのであり勿体ないのであります。中なら食べんなおらんなんかもしれん。
なかならば、着のみ着のままであるかもしれん。それに神様はです限りなく恵んで下さる、与えて下さる。何もない、何にも持たない。無一物の中から無尽蔵におかげを受けておるというところにです。私の場合本当に有難い事だ、勿体ない事だというのが、誰彼よりも違うんじゃないかと思うです。秋永先生でも、高橋さんでもそうです。伊勢海老位なら、何処ででん食べとる。
自分で金は持っとるから、食べようと思えば、買ってきていつでも食べられる、といったようなものがです。何とはなしに、ほんに勿体ない事じゃあると言いながら、本当に勿体ないものが湧いて来ないのではななかろうか、実感として。私の勿体ないと、皆さんの勿体ないの相違は、そこから生れて来るのじゃなかろうか。私の場合は、いわゆる無一物の中から、何にもない。その無一物の中からの自覚ですね。一切神様の御ものであるという自覚から、頂けてくるところのおかげであるから。
いわゆる、一から十迄が、神様のお下がりを頂かなければ、立ち行かないのですから、やはり有難い勿体ないが、人と違うのではないだろうかと。そういう意味の御理解を頂きました。そこで私どもが、本気でです、吾無力とか、吾無一物の、吾と言う自覚と言うものをです、本当に、作って行かなければならないという事です。私のもの、いいや、神様のものと、理屈では分かっておっても、心の中で、やっぱり、自分のものであるというところからです。
私は、有難い勿体ないが、段々、薄いものになってくる。自分という者を、いよいよ掘り下げ掘り下げ致しましてです。いよいよ、障子一重がままならぬ人の身である。一切が神様の御物といったようなものが、実感として分からせてもらうところにです。今日もこうあらして頂いておるという事に、障子一重はままならぬ私共であるのにもかかわらず、このような自由なおかげを頂いておるという事が有難い。歩きも出来れば、立ちも出来る、座ろうと思えば座る事も出来る。
という程しの事の中にでも、有難いというものが、段々、強く深くなってくると思うのです。そういう信心からです。これは教祖の神様だけの専売特許ではないと思われる。此方が祈るところ天地金乃神と一心なりという、私は、神様と氏子とが、一体になる。私共の助かりが、そのまま神様の助かり。私共の喜びが、そのまま神様の喜びと続くと言うか、交流すると言うか、そういうところにです。天地金乃神と一心なりという、本当の親と子という事のおかげになってくるのではなかろうか。
親神様であり、私共はその氏子であるという事を知っておってもです。神様が、心配は要らんとおっしゃっても、こちらの助かりがない為にです。やはり不安である、神を杖につけば楽じゃと。大里さんが、日頃の信心を思いますよね。どの程度にこの人が分かっておるかが分かりますよ。もうこの一言で、恐れ入ったという意味の事を言っております。お互いがね。その安心が生れてこないならばです。まあだ神様を、一にも神様、二にも神様と言いよるようであるけれどもです。
神を杖についていない証拠だと思うて、いよいよ信心を深め、進めていかなければいけないという事です。そこで不安があるなら、心配があるなら一心に神様に打ち向けて、これは前のところの一心。一心に神様に心を打ち向けて、本気での修行でもさせて頂くところから、生れてくるのが安心です。不思議です、どんな心配事があっても、本気で修行しますと、その心配がなくなってくる、薄くなってくる。しかも無くなってくる。そこに神を杖についておる姿があるのです。
大里さんのその事を聞いて、大里さんの信心が、本当にある意味で極めておられるなぁという事を感じさせてもらいました。今日のところ神がものを言うて聞かせる事がない。何処へ参っても片便の願い捨て、例えばそれを神様の声として、神様のもの言うて聞かせて下さるという実感を頂かずに帰るならば、やはり片便の願い捨てであります。今日のところは、桜井先生が頂いておられるところの、今の親が助かり子供が安心という、この御教。子供が助かり親も安心でございますと仰せられるのですから。
私共がです、ある偉い先生のお話の中に、信者が一生懸命難儀をしとる時に、一心にすがっておれば、どういう難儀であっても安心ぞと、おっしゃっておられますですね。神様に、どういう子供が難儀な問題を持っておっても、それを神様に向けておるならば、安心じゃという事です。昨日の、子供が助かり、親も安心でございますというのがそれなんです。けれども、難儀心配というものをです、神様一心に向けずに、信心はとても私どんじゃおかげ頂ききるまいと思うて。
信心が緩んだり他の所に一心のかけどころが違うと、やはり神様が心配して下さる。だから子供が本気で信心によって助かろうという、一つの一心というものがある限り、神様は安心して下さる訳です。そういう私共はおかげを受けさせてもろうて行くという事が、これは私共自身が本当に助かるという事になるのです。本当の助かりというものを、私共が頂いた時にです。子供達がお父さん、こんな心配がと言うても、心配は要らんよと、本当にそう言えれるという。
そこに子供の助かり、子供の安心があるのであります。そういうところ迄です。私共が頂かせてもらえる。神様がこうやって、もの言うて下さるという事をです。本当にもったいない事だと頂かせてもろうて、いよいよ私共は、神様に一心に向かう事によって、神様が安心して下さり、私共はそこから生れてくる、おかげを頂かせてもろうて、私共自身が助かる時に、子供が安心という、子供につながる、安心のおかげに迄、それが頂けていくのであります。天も地も昔から死んだ事なし。
ですから、生きた天地に対するところの、私共の向かい方というものがね。やはり生きた心でなからなければ、勿論いけないと言うことなのです。如何に天地が生きてござっても、こちらの心が枯れておったんでは、どうにも出来ません。だから私共の心が生き生きとして、水もひたたるような、生き生きしたものが欲しいです。その為に修行が求められる訳であります。今日は御理解五節を、ここに出ております御理解を説明するというのではなくて、神がものを言うてくれるという事についての
、深浅度と申しましょうか。深い頂き方浅い頂き方によって、その人の信心が決められるという事です。皆さんが親先生がああ言うて下さったからと、安心が出来ると言うならば、親先生をいよいよ信じておるからなのです。神様がもの言うて下さるという事を、皆さんが信じておられる。だからそこからいよいよ私共がです。助かる事のおかげを頂いて、その助かりが子供だけではありません。周囲の人達にも、潤うていくようなおかげを頂かせて頂きたいと思います。
どうぞ。